【馬と人の関係】愛あるまなざし-その2(2019.1.2)

新年あけましておめでとうございます。
タロウとルーカスと人とのハーモニーも2回目の新年を迎えることができました。
いつもタロウ、ルーカスに人の優しさを教えてくださる皆さま、本当にありがとうございます。
お陰さまでタロウもルーカスも、「人」は心が通じる「優しい生き物」だと認識してくれて、そんなタロウとルーカスに接するのが、私たちスタッフはとても嬉しいです。

前回の【馬と人の関係】愛あるまなざし(2018.11.21)にご質問がありました。
「『愛あるまなざし』って、具体的にはどんなまなざしですか?」

あまりにも直球過ぎて… 嬉しくて… 笑みがこぼれます。
この質問をした方は、どこがモヤモヤしているのでしょうか。
モヤモヤが「愛」ならば、答えはその方の「心」に。
モヤモヤが「ある」ならば、これはその方の「心」と「体」に。
モヤモヤが「まなざし」ならば、これはその方の「体」にあります。

この方は、自分が「愛あるまなざし」になりたいのでしょうか。
それとも「愛あるまなざし」を向けて欲しいのでしょうか。

馬には「心と体が一致したボディランゲージ」しか伝わりません。
「愛のないまなざし」でいると、まなざしで馬をリラックスさせることはできません。
人との関係性において、馬がリラックスするのは人の「愛」や「優しさ」を感じたときです。
 
前回、マザーテレサの言葉を引用しました。

あなたに出会った人がみな、
最高の気分になれるように、
親切と慈しみを込めて人に接しなさい。
あなたの愛が、
表情や眼差し、微笑み、言葉に
あらわれるようにするのです。

主語を「人」から「馬」に変えると…

「愛」について、今回 また、マザーテレサの言葉引用させて頂きます。

・・・・・
『大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです。』
・・・・・

「どれだけ多くのことをしたか」
この場合、「どれだけ」は「量」を表していて、意味は「結果」です。結果を意識すると、「評価」がつきまといます。「多い・少ない」、「早い・遅い」、「出来・不出来」。

「 どれだけ心を込めたか 」
この場合の「どれだけ」、意味は「量的な結果」というよりは、「純粋さ」といったほうが近いと思います。「純・不純」とという二極ではなく、「不純物」を「取り除く」というのともちょっとちがいます。
これ以上の純粋さはない!という100%の純粋さが既に自分にあって、どこまでそれに近づけるか… そんな感じだと思います。

「込めたか」
どれだけ「込めたか」というと、やはり込めた心の「量」が気になります。
「込める」というと、何か「器」のようなものがあって、その「器」にどれだけ「心が入るか」という心理になることがあります。
いっぱい込めなければ、という観念に襲われることもあるかもしれません。
それでは「込める」ではなく、なんだか「詰め込む」になってしまい、力(パワー)がかかります。
ホースハーモニーでは馬に力(パワー)を使いません。もちろん自分で自分にかける心理的な力(パワー)も。

「どれだけ心を込めたか」は量ではありませんので、心を込める「器」も、詰め込む「量」もありません。もちろん「結果」もありません。

あるのは「今、ここ」の、「心」であって、時間変化に伴って蓄積された「量」ではありませんし、その「量」からはじまる派生的な概念でもありません。

人は先入観や固定観念によって、ありもしない「器」を作り、そもそもありもしなかった「器」にどれだけ入ったかと、また幻を追いかけます。
そして結果の評価に気を取られて、挙句の果てに「自分を責める」ことさえしてしまいがちです。

ここにあるのはやはり、「純粋さ」です。
…どれだけ「純粋」になれたか。(過去形)

過去形で書くと、またまた… どれだけ「純粋」になれたかという「結果」が気になりますが、これはおそらく、「言葉」で表現しようとするから陥る「罠」です。「罠」。

固定観念と先入観で、ありもしない「器」を作り、「量」を計ろうとして「罠」にはまってしまいがちな私。

ところが、馬を前にして、心を通わそうとしている時は、この「言葉の罠」にはまりにくいです。なぜなら、馬はいつも「自分、ここ、今」ですから、そんな馬を眼前にすると、自分も 「自分、ここ、今」になってしまうからです。

馬の前にいる時は、
「不安」な自分。
「緊張」している自分。
「高揚」している自分。
どんな「自分」でいてもかまいません。
馬に人の心を隠すことはできないからです。隠す意味がありません。

ここでは 言葉が役に立たないし、状況によっては言葉が邪魔になります。
あるのはその時の「心」だけです。
馬と呼吸を合わせていくと、先入観、固定観念、評価というものが少しずつ「小さく」なっていきます。
つまり「純粋」さに近づいていきます。

結果的に「不安だった」心も、「緊張していた」体も、「高揚していた」心も体もすべて、「純粋」な感じになっていきます。

どれだけ純粋になれたか… 
それは馬が、「心と体が一致したボディランゲージ」で反応してくれるので直感的にわかります。分かるというよりも「感じ」ます。

言葉で言い表すとか、論理的に筋道を立てるとか、このような姿勢は、ある程度感じて、実感が確かなものになってからの方がいいような気がします。

「『愛あるまなざし』って、具体的にはどんなまなざしですか?」

1 まずは馬との会話を通じて、自分の「純粋さ」に気づくこと。
2 自分の「純粋さ」に気づくと、おそらく「自信」が湧いてくるでしょう。
3 その「自信」が馬への「感謝」とペアだということが感じられてきます。
4 馬への「感謝」は、必然的に自分を「謙虚」にしてくれます。
5 自分が「謙虚」な状態でいる時、馬はどんなまなざしをしているか。

その時の馬のまなざしが、自分の「愛あるまなざし」です。

※テクニック的には、「顔面神経」と「表情筋」で随意に「それっぽく」できますが、あまり通じません。やはり「心」的要素が大きいように思います。

何度も経験して、心と体で分かっていても、人の心は動きます。
純粋さから遠ざかることも、自信がなくなることも、傲慢になることもあります。
でも、タロウとルーカス相手に会話すると、いつの間にか「謙虚」なっている瞬間があります。

「愛あるまなざし」… これは自分で考えることではなく、タロウとルーカスを鏡として、実際に見せてもらうのが一番わかりやすいでしょう。

【馬と人の関係】愛あるまなざし-その1(2018.11.21

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