【馬と人の関係】Think like a horse その2(2018.12.3)

Think like a horseは人の心のひろさの分だけしかできない。
Think like a horseは人の心以上にはならない。
だから謙虚さが必要。

謙虚さとは、言い換えれば「ニュートラル」。
当時の教えが、今ならわかります。
「ニュートラル」とは、ただ「在る」状態。
ただ「在る」わけですから、広さという概念とは別次元。
つまり、広さは無限であるとも言えます。

Think like a horseのために心を「広く」しようとすれば、
結局、自分の心の限界に直面し、自分を責めてしまう。
往々にして、自分の心の「狭さ」だけが見えてしまう。
だから村上先生は「謙虚さ」を付け足したのだと、
いまならわかります。

「馬」を「娘」に換えてみる。
娘は何をもって、私が娘を観ていないと思ったのか。
何をもって、私が娘の心を感じていないと思ったのか。
何をもって、私が娘の心を察していないと思ったのか。
なぜ伝わらないのか。娘の眼になって、自分を観る。
娘の耳になって、自分を聴く。
娘の心になって、自分を感じる。
娘の心になって、自分を受け入れてみる。

ん。わかった。
娘の心的、位置的パーソナルスペースに入りすぎ。

娘が感じるのは、自分のパーソナルスペースに私が入り込むことに対する窮屈感。
娘が感じるのは、私の、既に結果が見えているかのような物言いに対する焦り、急かされ感。
娘自身の考えが入り込む余地がなさそうなくらい、既に答えを持っているかのような私の態度。(私には既知でも、娘には未知)

他にもいろいろ気づきます。
馬に対する接し方を教えてくれる父親の言行不一致に対する矛盾感。
娘は心底腹を立てている。
娘は心底悲しんでいる。
娘は自分の未知と父親の既知を、閉塞感として感じている。

このようなことに気づくと、娘が感じている様々な感情は、私自身の感情として感じられてきます。
すると、自分がのどが渇いたときに水を飲むのと同じくらい、自然に態度や物言いが変わります。変わらないではいられない気持ちです。
娘の渇きは私の渇き。
自分自身のことのように、自分が水を飲むかのように自然に。

娘と私の関係はどうなったか…

最近、よくあるのは、「さっきはごめんね。」という娘からの言葉。
そして、心から「パパの方こそごめんね。鈍感で。でも、教えてくれてありがとう。」
(本当はもっともっと反省していますが、言葉になるのはせいぜいこのくらいです。言葉にならない感謝の気持ちも。)
無言で差し出す私の右手。娘と握手。
この、お互いの伝わった感が私と娘の宝物。

Think like a horse. (馬のように考えなさい。)
Look as a horse.(馬になって観なさい。)
Hear as a horse.(馬になって聴きなさい。)
Feel as a horse.(馬になって感じなさい。)
Here is newtral.(ここがニュートラル。)
Then, be a horse, by bteathing.
(馬になりなさい。「呼吸」をとおして。

他者から言われると感じる反発と強制感、そして自責。
自らの気づきに基づく変化とその後のハーモニー。

馬を通して得られる気づきの世界は、障壁のない世界。

…その1へ戻ります。

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