【馬と人の関係】優しさの存在(2018.12.26)

タロウとルーカスは、人の「優しさ」にとても敏感です。
おそらく、タロウとルーカスだけではなく、すべての馬は優しさに敏感です。
この里山で私の知る限り、犬や猫、牛、カラス、虫までもが全く同じです。

ホースハーモニーメソッド(明星大学教育学部教授星山麻木先生の命名)は、馬に乗るのではなく、地上で馬とボディランゲージでコミュニケーションをとることで、馬と人が心底、「心と心を開きあって」向き合うためのメソッドなのですが、
「心と心を開きあって」と書いたのは、
心を開いている「馬」から、鎧を着た「人」が心を開かれる場合と、
心を開いている「人」から、鎧を着た「馬」が心を開かれる場合、
そして、お互いに心を開き、「共に在る」、共感の場合があるからです。

意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、タロウとルーカスだって、心に鎧を着ることはあります。(「緊張」が防御態勢を取らせる状態のことです。)

互いに心を開くために必須なこと。
ホースハーモニーでは、それは「優しさ」です。
「目的」、最初は不要です。
「目的」に対する「期待」、これも最初は不要です。後から「期待」ではなく「果実」という結果でもたらされますから。
タロウとルーカスの「状態」を表す「レッテル」を貼ること、これは永遠に不要です。

タロウにはタロウの、ルーカスにはルーカスの、それぞれ「個性」があり、個性によるその時々の状態があるからです。
そもそも、タロウとルーカスには侵すべからざる「尊厳」があります。
その「尊厳」が放つ輝きが、人々を照らします。
その輝きに対する感度が良くなると、癒され、嬉しくもあり、楽しくもあり…

眼先に目的があり、「何かのために」という状態では、純粋な意味で 「優しさ」は現れません。
ましてや相手に「レッテル」など貼ろうものなら、最初から心を開くということを放棄していることと同義です。
「優しい」状態になると、人も馬も、心はそこから自然に、目的の方向を向き始めますから心配いりません。ここは馬を信じるところです。

では、「優しい」とはいったいどのような状態なのでしょうか。
まず一つ目は、穏やかなこと。
二つ目は、心が温かなこと。
三つめは、上品で美しいこと。

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、
上の「優しい」の意味はすべて、自分自身の「状態」のことです。
決して「誰かのため」という目的語を伴うものではないです。

ホースとハーモニーすると他者の優しさを、なにより自分自身の優しさを、タロウとルーカスのボディランゲージという形で知ることができます。

ところで、なぜ誰かの「優しさ」に触れると、癒されたり、救われたりするのでしょうか。

最初は不思議に思いました。
たとえ私が、いろいろなことに緊張と不安、疑心暗鬼で押しつぶされそうなときでも、
タロウとルーカスの優しさ
タロウとルーカスという「尊厳」が放つ光は
私の心をニュートラルに戻してくれます。
癒されて涙が止まらないこともあります。

でもなぜか、癒されているのは私の方なのに、タロウもルーカスも、あたかも私に癒されているかのような表情をしています。

癒されているのは私の方なのに、私の後追いをしながら着いて来て、甘えた表情で穏やかにスキンシップを求めてきます。

本当に不思議でした。

「優しさ」…

きっとそれは、
癒されている私は、同時に馬を癒している。
タロウとルーカスは癒された私に、同時に癒されている。

その時、私の心のどこが癒されているのか、
タロウとルーカスの心のどこが癒されているのか、
それは、その時その時で違います。

不安と緊張に押しつぶされそうなときでも、
平穏に静かに生活している時でも、
喜びにあふれて生活している時でさえ、
「それ」はいつでも自動的に起こります。

ホースハーモニーの「優しさ」とはそのようなものです。

無理に誰彼に対して優しくなろうとはせず、
まず、穏やかに、
そして、温かに、
最後は、上品で美しく。

ホースハーモニーの際、「私は上品でも美しくもない!」とほとんどの方がおっしゃいますが、
タロウとルーカスの心の辞書には、
「美しい」は「あなた」 、
「上品」も「あなた」、
「優しさ」は、「今、ここ、あなた」と書いてあるような気がします。

「あ、私は自信をもっていいんだ。」

タロウとルーカスの、そして自分自身の優しさに気づいたとき、
私の心の辞書を開くと、
「優しさ」の項には「ありがとう」と書いてある気がしました。
「優しさ」とか「ありがとう」とか…
馬からのギフトは、かけがえのない宝物になります。

目次へ戻る

葉山ハーモニーガーデン